女神のブログ

14年前に女神に憑霊された時の事をブログに書きます。 エヴァとハルヒのビジョンを女神から見せられました。日月神示に僕の名が・・・

上杉謙信の生涯

上杉謙信を紹介します。

転載開始 https://joetsukankonavi.jp/kenshinkousai/chronology/
・1530年1月21日、越後守護代長尾為景(ながおためかげ)の末子として、春日山城で誕生。
・1536年、春日山城下の林泉寺に入り、名僧天室光育(てんしつこういく)禅師から厳しい禅の修業と文武の道を学んだ。 深い学識や厚い信仰心はこのとき培われたといわれている。 8月、謙信の兄・晴景(はるかげ)が家督を相続。また、この年の12月に父為景が病死。
・1544年、近隣の武将たちが謙信を若輩とあなどり、攻撃を仕掛けられるが、栃尾城代本庄氏、三条城代山吉氏、栖吉城主長尾氏らの協力を得て、敵を見事撃退。初陣を飾った。
・1548年12月、守護上杉定実(さだざね)の調停により、兄晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続。越後守護代となり春日山城へもどる。
・1550年2月、上杉定実が死去し、上杉家は断絶。 将軍・足利義輝(よしてる)から実質的に国主大名としての待遇が与えられる。 一方、12月、一族の長尾政景(まさかげ)が坂戸城(六日町)にたてこもり、謀反を起こす。(政景は翌年8月に降伏)
・1552年1月、関東管領上杉憲政(のりまさ)が北条氏康(ほうじょううじやす)に敗れ、謙信を頼り越後へ逃走。謙信は憲政のために御館を築造した。 4月、後奈良天皇から従五位下弾正少弼に叙任される。
・1553年2月、兄・春景が病死。 6月、領土を奪われた信濃諸将の要請を受け、武田信玄軍と対決(第1回川中島の合戦)。 9月に初めて上洛、後奈良天皇、室町将軍足利義輝に拝謁。
・1555年、第2回川中島の合戦。決着がつかず、駿河今川義元(いまがわよしもと)の斡旋により一度和睦。 春日山城下に善光寺建立。
・1556年、出家を志し、高野山へ向かうが断念。 箕冠城(板倉)の大熊朝秀(おおくまともひで)が謀反を起こしたため、春日山城にもどる。 朝秀を撃破し、越後の統一を完成する。
・1559年、4月、精兵五千を率いて上洛。正親町天皇足利義輝に拝謁。
・1561年、破竹の勢いで関東平野を蹂躙し、北条方の諸城を攻略。ついには北条氏康小田原城を攻め立てるが、攻略までは至らず。 この年の3月、山内上杉家を相続し、関東管領に就任。
・1564年1月、小田城(茨城)を攻略。 第5回川中島の合戦
・1570年3月、宿敵である北条氏康と和睦。翌年、氏康の七男の氏秀を養子とし、父子の儀を結ぶ。 12月、法号謙信を称す。
・1573年、武田信玄が病死。7月に椎名康胤、神保長職を討伐して、越中を平定。
・1574年、北条氏政に対抗し、関東に出陣。金山城騎西城・羽生城などを攻略。 同年12月、剃髪し、法印大和尚に任ぜられる。
・1576年、本願寺顕如と和睦。また、足利義昭(よしあき)の要請を受け、武田・北条両氏と和睦し、反信長体制を築く。 越中を平定し、能登に進む。七尾城(石川)を攻め立てるが、攻略できず。
・1577年、再び能登に侵攻。このとき七尾城に伝染病が流行し、多くの兵が病死。謙信に心を寄せていた遊佐続密(ゆさつぐみつ)が謙信と通じ、反乱を起こし、能登も上杉家の支配下となる。
・1578年、関東大遠征直前に脳溢血で倒れ、49歳で帰らぬ人となる。

以上です。