女神のブログ

14年前に女神に憑霊された時の事をブログに書きます。 エヴァとハルヒのビジョンを女神から見せられました。日月神示に僕の名が・・・

伊達政宗の生涯

伊達政宗の生涯を紹介します。

転載開始 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/185670/
伊達政宗は1567(永禄10)年、米沢城主伊達輝宗(てるむね)と正室の義姫(よしひめ)との間に生まれました。
・5歳のときに寺で不動明王の像を見た梵天丸が「なぜこのように猛々しい顔をしているのか」と尋ね、そばにいた僧が「不動明王は外見は猛々しいけれども慈悲深く、民衆を救おうとなさっているのです」と答えると、梵天丸は納得。「武将が目指すべき姿と同じだ」とつぶやいた
政宗は幼いころに疱瘡(天然痘)にかかり、右目の視力を失っています。そのせいか恥ずかしがりやな一面があり、家臣からは政宗よりも弟の小次郎を跡継ぎに推す声もあったそう。義姫もまた弟をかわいがり、跡継ぎにと望んだといわれています。
政宗は11歳で元服し、13歳で隣国の田村氏の娘、愛姫(めごひめ)と結婚。1584(天正12)年に18歳で父から家督を譲られ、伊達家の当主となります。
・二十歳そこそこの政宗は、戦に戦を重ねて勢力を拡大。米沢城から会津黒川城へと拠点を移しています。
・関東の北条氏を倒すために、全国から兵を集めて小田原攻めを行ったのが、1590(天正18)年のこと。秀吉は53歳、政宗は24歳でした。
政宗は秀吉の傘下に入る覚悟を決めて、小田原へ発つ決心をします。が、そこで思わぬトラブルが発生。
出発の前に義姫のもとへあいさつに行き、そこで食事をふるまわれた後で、激しい腹痛とともに倒れるのです。
解毒剤を飲んで一命をとりとめた政宗。母が息子に毒を盛ったのでしょうか?
義姫が毒を持ったという事実はないという説もあり、真実はわかりません。
・遅れて小田原に到着した政宗を詰問したのは、秀吉の家臣団です。秀吉に直接会って弁明をする機会は、すぐには与えられませんでした。
しかしその状況で政宗は「(小田原攻めに従軍している)千利休に、茶の湯の稽古をつけてほしい」とリクエスト。その報告を受けた秀吉は「田舎者にしては面白いやつだ」と政宗を気にいったようです。
・そして秀吉との面会の日、政宗は死装束に身をつつんで遅参を謝罪。秀吉は政宗の首を杖でつついて「もう少し遅ければ、ここが危なかった」と許したといいます。
政宗は田舎者というコンプレックスをばねにして茶の湯や和歌の腕を磨き、天下人となった秀吉や家康をはじめ、戦国大名らと交流を深めていきます。
・1591(天正19)年、奥州仕置で領主が変わったばかりの大崎・葛西(岩手県南部)で一揆が起こりました。政宗一揆を平定しようとしますが、同時に政宗こそが一揆の首謀者だという噂が流れます。その証拠となる政宗の直筆の手紙が、秀吉のもとに届けられていました。
・1595(文禄4)年、秀吉は跡継ぎとしていた甥の豊臣秀次(ひでつぐ)を、謀反の疑いで処分しています。秀次と親しくしていた政宗も関与を疑われ、罰として今度は伊予国愛媛県)への転封を命じられました。
『名将言行録』によると、政宗はなんとか秀吉にとりなしてもらえないかと、家康に相談をしています。
・秀吉の使者が「早く伊予国へ引っ越せ」と政宗のもとへ催促に行くと、家臣たちは弓や鉄砲、槍や長刀で武装をして、今にも打ち出でんばかり。
そこに丸腰の政宗が現れて「自分としては、伊予国に移ることで秀吉の怒りがとけるならそうしたい。けれども家臣たちがこの通り、どうしても納得してくれないのです」とはらはらと涙を流しました。

これが作戦。家康は「このまま転封を断行すれば、奥州の家臣たちが反乱を起こしかねない。ご赦免を考えては」と秀吉にとりなしたといいます。
・家康が病に倒れたのは、この事件がまだ世間を騒がせている最中です。亡くなる前に枕元に政宗を呼んで「後を頼む」と遺言したというから、驚きませんか。ちなみに2代将軍の秀忠も、亡くなる前に政宗を呼んで後事を託し、3代将軍の家光にいたっては、幼いころから政宗を慕っていたといいます。

政宗が天下人から信頼されたのは、なぜなのでしょう。
また、野心はいつか、ついえたのでしょうか。
政宗が亡くなったのは1636(寛永13)年、70歳のとき。床についてからも、家光や諸大名らが見舞いを差し向けるたびに起き上がって裃(かみしも)を付けて迎えたので、体調が回復する暇がありませんでした。
辞世の句は、「曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」。
闇夜に金色の光をさして、かっこよく去っていく背中が目に浮かぶようではありませんか。

以上です。